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国指定特別史跡
戦国大名朝倉氏が築いた中世都市。敵の侵入を 防ぐため、巨石を積み上げて築かれた下城戸跡は迫力満点です。発掘で確認された遺構は露出展示され、当時の屋敷の礎石や石垣などを見ることができます。
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朝倉期末期の様子を描いた絵図面。絵図には町割りだけでなく、背後の山腹に位置する山城の様子も記載されています。諏訪館跡の立石の注記に「弘化四年」の記載があることからそれ以降の作成と考えられ、江戸時代末期の作と推定されています。
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諸説ありますが、2017年の発掘調査で、川湊として栄えたといわれる安波賀で確認された、足羽川につながると推定される旧河道を横切る石敷遺構。道路あるいは船着き場、荷揚げ場といった役割が想定されています。 ※新博物館で公開するため現在は埋め戻し中。
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大野を経て岐阜の美濃へと東西に走る美濃街道は、物資の運搬や領地外への派兵など朝倉氏の領地支配に大きな役割を果たしました。
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越前を南北に縦断する幹線道で、敦賀や京などからの物資を一乗谷に届けました。旧北陸道とほぼ並行し、南は現在の南越前町、北は坂井市あたりまで伸びていたとされます。東大味町には石畳や石積の遺構が残ります。
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国指定重要文化財(美術品)
発掘調査では多くの遺物が出土し、石仏、石塔のほか、寝床を温めるバンドコや湯を沸かす風炉など石で作られた多様な生活用品が出土しました。その中には足羽山産の笏谷石製のものもあり、一乗谷では、暮らしに石が深く関わっていたことが分かります。
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足羽山周辺で採掘された緑色凝灰岩。濡れると深い青色になることから、「越前青石」とも呼ばれます。柔らかくて加工しやすく、古くは古墳に埋葬される石棺として用いられました。中世に採掘が再開され、建材や日用品など幅広く利用されました。
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朝倉氏滅亡後に越前を統治した柴田勝家が築いた巨大城郭。屋根に笏谷石が葺かれた美しい姿を宣教師のルイス・フロイスが書き記しています。発掘された石垣の一部が柴田神社境内に残されています。
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柴田勝家が北陸道と足羽川が交差する要衝に築いた半石半木の橋。その理由については諸説ありますが、江戸時代には名橋・奇矯として広く知られていました。
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初代福井藩主結城秀康が築城。四重に廻る堀は堅牢な石垣に囲まれていました。石垣はすべて笏谷石製で、用水や暗渠、建物の礎石や瓦などの建材も笏谷石で作られていました。その美しい姿は、現在も福井の街の景観を彩っています。
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結城秀康が福井城と城下町を建設する際、城下の飲み水を確保する目的で築いた上水路で、九頭 竜川から取水していました。発掘調査により福井城内の一部では石組みが築かれていたことが分かっていますが、全貌は不明です。
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市指定史跡 国登録建造物
福井藩の医師、山本瑞庵が足羽山の麓の笏谷石採掘場跡に建てた庵。美しい庭園の通路の敷石や橋などに笏谷石がふんだんに使われています。 幕末には藩主の松平春嶽をはじめ、橋本左内ら志士の密会の場となりました。
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国指定重要文化財(建造物)
第4代福井藩主松平光通の創建。境内からほど近い山中にある歴代藩主を祀る廟所「千畳敷」 は、1360枚もの笏谷石が使われています。また墓石、柵、門扉に至るまで笏谷石が用いられており、尊厳的な空間を演出しています。
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足羽山山頂に続く愛宕坂や百坂などにつくられた石段に は笏谷石がふんだんに使われています。麓にはかつての採掘場の跡地を見ることができます。同じくふもとに建立されている寺社の灯篭などにも笏谷石が用いられ、青い石が厳かな雰囲気を醸しています。
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国指定特別名勝
一乗谷では、豪壮な庭石組の池泉回遊式や枯淡な枯山水など15カ所以上の庭園跡が見つかり、良好に原形を残す石組が当時の庭園様式を伝えています。そのうち最も大きな「諏訪館跡」など4庭園が国指定特別名勝です。
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国指定名勝
福井藩松平家の別邸である回遊式林泉庭園。長さ5m幅90㎝もの巨大な自然石を使った石橋、景石、立石、笏谷石製のつくばいなど越前産の名石を各所に使っていて、ゆっくり散策しながら水と石が作る景観を楽しめます。
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一乗谷周辺には、戦国期に造られた笏谷石製の石仏・石塔が約6000点も残り、その数は全国に例がないほど。西山光照寺跡や盛源寺などに数多く残る石仏の繊細で優美な表情は、当時の人々の厚い信仰心を伝えています。
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